日本が真の民主主義国家になるために
2010-08-09


政治の世界では、たった一人の議員が党を離れることが、大きなニュースとなりうる。また、議員の数が少ない政党であっても、(郵政民営化のような)重大な議案について、与党の政策運営に不釣り合いに大きな影響力を持ちうることは、私たちの記憶に新しい。

それは、政治の世界では「厳格な多数決主義」が貫かれているからである。僅かな差であっても、一票でも上回っていれば、それが多数の意見として、法案は成立する。その一票を取りに行くために、様々な政治工作や駆け引きが行われる。

これは、憲法56条2項が「両院の議事は、・・・出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる」と、多数決原則が定められていることに基づく。

このように、国会議員が投じる一票については厳格な多数決が貫かれているのに対して、その国会議員を選ぶために我々国民が投じる一票については、厳格な多数決原則どころか、数でいえば少数の選挙区民が多数の国会議員を選ぶという、「逆多数決」が成り立っている。

例えば、先の参院選で自民党は民主党に圧勝したが、得票数で見ると、民主党は2,270万票で28議席を獲得した一方、39 議席を獲得した自民党は、約1,950万票にすぎなかったのである。去年の衆院選では、全体の42%の国民が300人中151人を選出し、58%の国民が選んだ149人を上回っている。

最終的な国会議員の票について多数決原則が守られているとしても、彼らを選ぶ大前提の時点で多数決が取られていないのであれば、本末転倒ではないか。

この「一票の平等」という議員定数不均衡は、憲法を勉強した人間であれば必ず学ぶ問題である。しかし、私自身、学生時代に法律を学んだ者として、反省しなければならないかもしれない。それは、「衆院選についてはおよそ2倍まで、参院選についてはおよそ5倍までは合憲」という最高裁判例を、所与のものとして疑わずにいたからである。いわば、天動説であったわけだ。

その主たる理由は、「選挙制度は法律で定められるもの」であり、かつ「選挙制度は多分に技術的なもの」ゆえ、「国会にかなりの裁量が認められる」といったロジックであった(加えて、「参議院は特殊だからさらに大きな格差もOK」という理由づけもあった)。

しかし、そもそも「一人一人が平等に一票を持つ」という権利は、憲法上要請される重要な権利である。「2倍」「5倍」と表現すると、「まぁ自分は一票あるからいいか」と感じてしまうが、これは言い方を変えれば、「あの人は一票ですが、あなたは0.2票しかありません」ということと同じである。

例えば、「男性は一票、女性は0.2票」ということだったら、大問題であろう。「現役世代は一票、老人は0.5票」でも。現状の一票の格差というのは、これと本質は変わらない。先の例が性別や年齢による差別であったならば、現在の一票の格差は住所による差別、なのである。

あるいは、厳格に一人一票が実現されていたとして、選ばれた国会議員が、今度は選挙区によって票数が違ったら、どう感じるだろう?自分が選んだ代議士は、他の議員をあと4人つかまえてこないと、他の選挙区の代議士の一票に満たない、ということだったら?

このように考えると分かりやすいが、一人一票の原則は、民主主義の根幹をなす。米国では、1対1.007倍の格差(1票対0.993票)ですら違憲無効とされている。2倍、5倍の格差を容認しているわが国は、そもそも民主主義とは言えないのである。

考えてみると、国会議員は現状の選挙制度によって選ばれたので、制度の最大の利害関係者である。彼らに選挙制度の在り方を判断させるということは、野球でいえばいわばバッターが、アンパイア(球審)の役割を公正に演じられるわけがない。あくまで、一票の価値の平等という原則を遵守した上の技術的な裁量のみ持つと理解すべきである。


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